最果ての地 サンプル


 キング・ブラッドレイ大総統が謎の失踪を遂げて半年以上が過ぎた現在、これまでの軍の独裁制に代わり議会政治がこの国アメストリスを先導していこうとする、そのレールが漸く整備され始めようとしていた。
 しかし、南のアエルゴや北のドラクマといった大国が政情の不安定さにつけこんで、虎視眈々と侵略を開始しようとしているという情報が毎日のように飛び交い、軍自体は平和や安寧といったところとは程遠いところに位置していた。
 なかでも、国境をはさんで直接敵を監視する任を負う北方と南方司令部は戦々恐々とした日々を強いられており、国境を警備する兵士たちは戦時中さながらの緊張と激務で肉体的にも精神的にも綱渡りの毎日を送っていた。そのため、セントラルを始め、東方や西方で少しでも人材に余裕のあるところや、果ては予備役、および退役はしたものの軍属に支障のない人間は余すところなく召集され、国境付近の各駐屯地へと続々と兵士が配属されていった。
 だが、いまだ政情不安定の国情では高まる緊張感に設備の充実が追いつくはずもなく、駒は増員されてもそれに見合う宿舎が足りなかったり、周辺の慰安施設がまったく整備されていなかったりして、勤務する兵士たちの欲求不満は募るばかりであった。上層部はそれと承知していながらも荒れたままの内情の方の整備に忙しく、末端の駐屯地の要望など二の次三の次、といった感じでその優先順位は限りなく低かった。ただ人員の補給だけが殆ど無理矢理とは言え滞りなく行われ、必然的に現場の不満はさらに募ることとなり、ひたすら悪循環と化すばかりだった。


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「報告します! 本日付でこの駐屯地配属となりました兵士三〇名が到着しました!」
 軍曹の報告を受け、執務室で書類を検分していたライアー准尉は鷹揚に頷き、そしていかにも面倒くさいといった風情でその重い腰を上げた。
 北方の国境線に近いここ・レン駐屯地の猫の額ほどの演習場に、追加配属されてきた兵士が行儀良く整列して、統括責任者代行を務めるライアーを待っていた。
 本格的な冬将軍の到来はもう少し先の話だが、ドラクマとの国境に聳えるブリッグズ山の山頂には凍った万年雪がキラキラと光を反射させ、そこから吹き降ろされる風は相当に冷たい。
 ライアー以下、ここに勤務する兵士たちはファーの付いた上着を着ていたが、たった今配属されたばかりの三〇名は通常の軍服しか着衣していないため、さらけ出された頬や首筋に冷たい風が痛いほどに突き刺さる。それでも身体を縮こませたり手を擦り合わせたりして暖を取るわけにもいかず、やせ我慢したまま直立の姿勢を保つしかなかった。
「ライアー准尉である。ここの統括責任者はアラン・レッグス少尉殿だが、少尉は五つの駐屯地の責任者を兼任しておられてこちらへはめったにおいでにならない。よって、実質的には俺が責任者だ」
 着任したばかりの年端も行かぬ若い兵士たちを見下ろしながら、ライアーは最初が肝心とばかりに脅しをかける。
「貴様らがここに来る以前にどんなぬるま湯の中にいたのか知れんが、ここは今までみたいに甘えが通じる場所じゃない。それを肝に叩き込んでおけ!」
「イエッサー!!」
 緊張する若い兵士の表情が少しだけ不安に曇るのを見て、ささやかな自尊心を満足させたライアーだったが、見回した兵士の中にひとりだけ異質な雰囲気を纏うものがいることに気づき、無意識に眉をひそませた。
 特にこれと言って目立つ様子はない兵士だった。新兵というには少し歳がいっているように見える。左目を大きな眼帯が覆い、残った右目にはおよそ感情というものがみられない。他の大勢の若者が見せる新天地に対する不安や怯えがまったく見られない。
 だが、気になったのはその外見よりも、彼の纏う雰囲気そのもの―――その存在感の薄さ自体が目立つ、というかなり矛盾した気配のせいだった。
「おまえ、名は」
 ライアーがその兵士の前に立って、わざとらしく胸と顎を突き出して尋ねると、兵士はきれいな敬礼をして口を開いた。
「はっ。ロイ・マスタング伍長であります。准尉殿!」
「ロイ・マスタング……ああ、これか」
 パラパラと手もとの書類をめくり、該当する身上書に目を落とした。
 東方内乱時に召集・参戦、イシュヴァール戦において片目・片足を負傷。以後東方の地方基地を転々とした後に、北方からの要請にしたがって異動―――経歴自体に不審な点は見当たらなかった。が、イシュヴァール戦に参戦していたとなると、見かけよりは年齢がいっているということか。
 その割にはキレイな顔してやがる、と鼻を鳴らした。
「ふん、ずいぶん前に負傷しているな。軍人として役に立つのか?」
「東方では文官を務めておりましたが、射撃訓練は怠っておりません。クラスはAです。足の方は如何ともしがたく、作戦行動には不向きかもしれませんが、後方支援ならば問題ありません」
「なるほど、この辺境で見張りぐらいはできるということか」
 つまり、体のいい厄介払いの類だ。こんなものを回してきやがって。
 ライアーは忌々しく舌打ちする姿を隠さなかったが、マスタング伍長の方は目の前で自分を厄介もの扱いされることに慣れているのか、それをまったく気にした様子はなかった。
 しかし、コレはコレで意外と使い道があるかもしれない。ライアーはマスタングの全身を嘗め回すように検分した。
 よく見ればこの男、気色の悪い眼帯を隠すためか、無造作に伸ばされた黒い髪の下に隠れたもうひとつの目は髪と同じく漆黒で、澄んでいる。長いこと文官をしていたことを裏付けるように、手の指は軍人の男性の割には幾分細い。戦場で負傷したというからには傷ひとつ無いということはないだろうが、少なくとも顔や手など露出している部分の肌はきめ細かく、日に灼けていない。加えて成人男性としては平均かもしれないが、屈強な軍人の中に立たせれば比較的小柄な体格だ。
 駒として役に立つかどうかはともかく、今もっとも不足して切羽詰っているものとして役に立つかもしれない。
 ライアー准尉のたくらみはとりあえず彼の心の中だけに留められ、マスタングを含めて周囲の誰にも気取られることはなかった。しかし、マスタングを見るライアーの目つきが上官としてのそれではなく、邪な目的を持ったいやらしいものであったのは明らかで、マスタング自身は当然それに気づいていたがもちろん何も言わなかった。


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「マスタング伍長、交替だ」
「もうそんな時間か」
 形式どおりの引継ぎを済ませて首に下げていた双眼鏡を交替の兵士に渡してから、ロイはもう一度北の地平を見やった。
 青白い山脈が灰色の雲に霞んで、その稜線を滲ませている。
 あの中は吹雪だろうか。迷い込んだなら、前も後ろも、果ては天も地もわからないほどに自分を取り巻く周囲すべてが冷たい白に染められているのだろうか。
 あの山々まではかなりの距離があるけれど、その何もかもを凍てつかせるような残酷さは現実的な距離を越えて、人々の心を蝕んでいる。
「まっすぐ宿舎に戻るのか?」
「ああ。別に他に用事はない」
「そりゃそうだな。今日が給料日と言ったって俺たち下っ端が街に飲みに行けるわけでもないしな」
「ああ、そういえば給料日か。すっかり忘れていた」
 ロイのとぼけた物言いに、仲間の兵士が屈託無く笑った。
「欲が無いにも程があるぞ。いくら娯楽に疎いマスタング伍長殿だって、月に一度の給料ぐらい嬉しそうにしろよ」
「嬉しくないわけじゃないが、その給料を准尉殿のところへもらいに伺わねばならんと思うと……なぁ」
「そりゃそうだな」
 仲間がどっと笑うその声を背に受けて、ロイは見張りの展望台をあとにした。


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 ここに来て、すでに三ヶ月が過ぎていた。

 ホムンクルスであり、軍の大総統として民衆を利用しようとしていたキング・ブラッドレイをこの手で倒した。しかしそれは、正義感からでもなんでもなく、ただひたすらに私怨を果たすためだったことは認めざるを得ない。そしてその結果、軍は最高指導者を唐突に失い、独裁政権状態だったアメストリスという国全体を混乱に陥れた責任は間違いなくロイにある。
 軍による独裁制ということ自体があまり推奨されることではないにしろ、長期に渡ってそれなりに安定した状態であったことには間違いない。その目的はどうあれ、ブラッドレイが優れた軍人であるとともに優れた政治家でもあったのは紛れもない事実なのだ。
 独裁者であったブラッドレイを、ロイは自分の手で葬った。それがはたして民衆にとって正義なのか、それとも悪なのかの判断が下され、歴史の教科書に載るのはまだまだ当分未来の話である。
 だが、少なくとも今現在、国の安定が揺らいでいるのはロイのせいだ。誰もロイを責めることはなかったが、ロイ自身はそう自覚していた。
 だから、ロイは軍を辞めることができなかった。この件について真実を知るのは同行していたリザ・ホークアイ一人であり、彼女がロイを糾弾することなどなかったにせよ、誰よりもロイ自身がその事実から目を背けようとはしなかった。
 それを潔しと好意的に捉えるものもいるだろうが、実際のところ、その事実から逃げずに己の行いを直視したというよりは、ロイが自分で判断することができずにただ断罪されることを待つことしかできなかった、という方が正確だろう。
 「ヒューズの敵」という私怨を果たしたに過ぎないロイは、ブラッドレイを弊した時点でその目的を達成したと同時に、それが国家という非常に大きな存在の安定した地盤を突き崩すきっかけになったことを認めざるを得なかった。「いつか大総統の地位について軍を掌握する」という野望を抱いてはいたが、親友の仇討ちという個人的に過ぎる考えにとりつかれているうちにおのずと視野は狭まり、以前は確かに備えていたはずの国民を導くほどの指導者的手腕は殆ど形を潜めてしまっていた。
 今の自分にはひとの上に立つ資格も力もない。その程度には、ロイは自分のことを把握していた。
 ブラッドレイとの死闘による怪我は、長期に渡りロイにベッドの住人でいることを強要した。その間に、瓦解してゆく独裁体制と混乱する市民生活をロイは目の当たりにせざるを得なかったが、もちろん何もできなかったし、何も言えなかった。
 よろよろと手探りで立ち上がろうとする議会政治は、多くの人々の期待に押し潰されそうだった。錬金術師としてもさることながら、優れた司令官として名を知られていたロイ・マスタングは軍や議会から前線復帰を望まれていたし、実際その打診も毎日のように受けていたのだが、体調の不調を理由に面会すら断り続けていた。
 それでも、時がたてば傷は癒える。失ってしまった視力は戻らないが、日常生活に苦がなくなってくる頃には議会も安定し始め、周囲の人々もそれぞれの日常に追われるようになる。ロイを慕う人々は全員が優秀な軍人でもあった為、彼らがロイの傍についていたくとも、軍としてはそれを許すことができない状況にあり、彼らもまたそれを認めざるを得なかったので、必然的にロイは一人で自分の面倒を見なくてはならなかった。
 自分はこれからどうすればいいのだろう。
 たった一人の親友の敵は討った。生きる目的のすべてを果たしてしまった。だからといって死ぬこともできない。今さら、人の上に立とうなんて微塵も思わない。そもそもこんな混乱する事態を招いたのは間違いなく自分自身だ。とはいえ、それを苦にして自殺するほどの勇気も持ち合わせてはいない。
 不安定に揺れる気持ちだけを持て余して、立ち竦んだままどこにも行けない。
 ロイは長いこと自宅に閉じこもったまま、もと部下たちがたまに訪ねてくるとき以外はその玄関を開けることをしなかった。
 軍を辞める勇気すらないのなら、軍に居続けるしかない。けれど、今のまま准将という地位に安穏としていることもできない。どうすればいい。
 何が正しくあるべきなのかも判断できない。このままここにいるよりは、と縋るような思いにかきたてられるまま、持ちえている権力を利用して自分の経歴を偽造させ、遥か北方への異動命令書を発行させた。

 そして誰にも知られぬまま、ひっそりと独り、この地へとやって来たのである。


(冒頭部分より)

(2006/9/17 ハボロイ秋の収穫祭発行)



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